ヘデのおうちストーリー

旦那様はせっかちにも千の風となり、子育ても卒業したヘデが2015年10月に平屋を建て替えました。その成り行きと現在の生活雑記を綴ります。ブログ超初心者です。

母への思い

サクラの花が咲き始めたというのに、寒波襲来。
慌てて冬物を出して着ました。
この時期は本当に油断ができません。
芽が出て来たチューリップもびっくりしていることでしょう。

ビオラは今が盛りです。
ムスカリはすっかり忘れていましたが、毎年必ず小さな花を咲かせてくれます。
青色が目に鮮やかに入ってきます。

アジサイもやる気満々です。う〜んと腕を伸ばしているように見えます。
クリスマスローズはこんなにきれいな花をつけるのに、どれも下を向いています。
内気な淑女のような風情です。


そんな中、へでには気が重いことが続いています。
へで自身が、思いがけない病気が分かったことは、以前お伝えしました。

おかげさまで次回4月に経過を見て、放免されそうです。


同じ時期に実家の母が耳鼻科に通院中に急に倒れて、入院してしまいました。
硬膜下血腫ということで、一気に介護度5となりました。
認知機能が後退したせいもあって、口からものを食べようとしません。
ジュースも60ccほど飲むのが精一杯らしいです。
この時期ですから、面会はタブレットを介してです。
調子のよいときには昔の話などすると、ご機嫌で会話ができ、
うれし泣きをしたり笑ったりしています。
栄養補給のために今は、鼻から栄養素をいれています。
24時間注入しているため、チューブを抜かないように手に大きなミトンを着けています。
本人はこれが苦痛のようです。
そしてドクターからは胃ろうを勧められています。
胃ろうの方が感染症を防げるし、入浴も安全なのだそうです。
栄養がつけば、リハビリをする体力が向上することも見込まれます。
ミトンから解放されるかもしれません。
兄は賛成しています。
・・・・・理屈はその通りだと、へでも思います。
でも、でも、元気な頃、母は繰り返し、延命処置は嫌だと言っていました。
しかも認知機能が下がっているということで、本人には胃ろう処置の承諾はなしです。
娘として、また自分の遠くない将来の姿と考えると、すんなり割り切れません。
へでが迷っている様子を見て、病院側はしばらく猶予期間を設けてくれました。
ひと月後やっぱりこのままでは、栄養不足に陥るとのことで再度胃ろうを勧められました。
胃ろうをしても本人が望めば口から摂取できるし、
口から物を食べられるようになった人もいることを知りました。
母は年齢的にも、認知機能的にもそうした可能性は低いと思いますが・・・・
気休めかもしれませんが、
母本人に胃ろうの説明をして、本人の反応を見て欲しいとナースにお願いしました。
快く引き受けていただき、ありがたいと思いました。
先週の面会のときに、車椅子に座っている時が一番認知がしっかりしているので、
その時に説明をしたことをナースから伝えられました。
母は真剣な表情でナースの話を聞き、
しばらくして「難しいので、少し考える時間が欲しい。」と答えたそうです。
その後日を開けて、図や文字を使ってまた説明を母にしてくれました。
最終的には家族に任せると母は告げたそうです。
その場に居合わせることができないので、母がどのくらい理解できたのかは分かりません。

でも、母ときちんと向き合ってくださったことに感謝です。
医療的には胃ろう処置が最善で、遠からず胃ろうをすることになりそうですが、
ワンクッション置いてくださったことが、へでの気持ちを少しだけ楽にしてもらえました。

へで自身も延命処置は嫌だと思い、子どもたちに紙にそのことを書いて渡していましたが、

事はそんなに簡単なことではないということが、今回よく分かりました。
病院側としては、栄養不足をみすみす見逃して放置することはありえないわけです。
自然に枯れていきたいと望めば、自宅療養ですが、
そのまま自然死した場合、子どもたちは警察から事情聴取されそうです。
それを避けるためには定期的に医師の訪問を受け、臨終に立ち会ってもらう必要があります。
この先、老いた身でこうした段取りをつけることはほぼ不可能ですよね。(T ^ T)
結果的には、病院でたくさんのチューブにつながれて、この世からおさらばすることに(◞‸◟)
もう、そうなった時には観念するしかないのでしょうね。
母というのは、ムスメにいろいろなことを見せ、いろいろなことを考えさせてくれます。


このブログでも折々に記事にしてきました。
これは平成16年4月、まだ母が元気で自宅で過ごしている時期のものです。
今読むと、ずいぶん勝手なことを書いています。



これは半年後の10月の記事です。
母が自転車で転倒して鎖骨にヒビが入り入院しました。
退院後は病院と同じ系列のショートステイを利用することになりました。
以降、自宅暮らしはできなくなりました。


これは年が明けた翌年平成29年2月の記事です。
母の視線で一緒にへでやをチェックしていきました


翌月の3月の記事です。
親不孝なことを散々言っています。


これはその1年余り後の平成30年1月に書いた記事です。
終の住処として、有料の介護施設に母は入りました。

コロナが流行するまでは、
月2回兄と同じ敷地にある自分の家に週末2泊3日の外泊をしていました。
施設生活では携帯電話を使って、兄やへでに持ってきて欲しいものを伝えていました。
時には長い長い雑談を一方的にして、閉口させられることもありました。


これは平成2年5月の記事です。
寝室とトイレはできるだけ近い方が良いという母の教えです。


外泊の時に、少しでも快適になるようにと、兄が母の家をリフォームしました。
これは令和2年6月の記事です。

コロナが流行が広がると、施設も面会制限が行われるようになり、
外泊も必要最小限になってしまいました。
滅多に帰らない自分の家は、母には馴染みのないものとなってしまいました。
残念ながら兄の思いは、母には届きにくくなりました。


そして昨年末の入院です。
母はムスメに自分の様子を目の前で見せ、いろいろなことを教え続けてくれています。
母のムスメに生まれてきて良かったと感謝しています。


長い話に最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。m(_ _)m

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