ヘデのおうちストーリー

旦那様はせっかちにも千の風となり、子育ても卒業したヘデが2015年10月に平屋を建て替えました。その成り行きと現在の生活雑記を綴ります。ブログ超初心者です。

義父との別れ

コロナの規制がなくなり、病院や介護施設以外はマスクをしなくてもよくなりましたね。
それなのにゴミ出しに行くときは、身繕いが間に合わずマスク着用です。(*^^*)
お散歩の時には暑くて、もうマスク着用は無理です。
お散歩コースの観光地では、県外ナンバーの観光バスがずらりと停められ、
道行く人でいっぱいです。日本人のマスク着用も少なくなってきました。
1年前の閑古鳥が鳴いていた様子とは別世界です。
このままの状態が続きますようにと願います。


今日は、胸の痛むご報告です。
へでやのスープの冷めないところに、義父母の住む家があります。

昨年のGW明けに、義父は2つ目の入院先から介護施設に入りました。

コロナ禍の規制は、介護施設ではことのほか厳しいのですが、
この施設ではずっと週1回、15分の面会を続けてくれました。
義父は家のことを気にかけ、除草、防虫、剪定などいろいろな指示を出してくれました。
義母も差し入れする物を準備するのが楽しみのようでした。
享年百歳の両親のDNAを受け継いでいる義父は、ドクターも驚く強さを見せました。
「この数値で、これだけ動けて食べられる人は珍しいです。」と何度も言われました。


そんな義父ですが、3月中頃トイレに行く途中ふらついて転倒してからはめっきり
弱ってきました。
元々偏食の多い人でしたが、もう好物しか口にしなくなりました。
ベッドから降りて活動することも最小限になりました。
ドクターから看取りの時期に入ったと告げられ、面会制限がなくなりました。
親族の面会も許されるようになり、孫やひ孫に本当に久しぶりに会うことができました。
(義父には、コロナの制限が緩和されたということにしていました。)
すると、弱気になっていた義父の気持ちが上向いて、また少し食欲が出てきました。
入浴も積極的にするようになりました。
ドクターがまたまたびっくりでした。
義父は延命治療は不要と言い、気管切開、栄養点滴を拒みました。
たくさんの見舞客を迎えたGWが終わると、全てを見届けたというように亡くなりました。
亡くなった日は、へでが甘酒を持って行くとおいしそうに飲み、
へでが片付けようとすると「もっと」と催促した言葉が最後の言葉でした。
その3時間後に旅立って行きました。
最後まで認知機能も衰えることなく、羨ましいような大往生でした。


覚悟していたとはいえ、義母にはつらい別れです。
昼間は人の応対などで気持ちが張っていますが、
寝る前に義父の祭壇の前に座ると涙が出てしまうと言っています。
長年明治生まれの舅姑と暮らし、「お父さんはもう・・・・」が口癖でしたが、
ずっと一緒に暮らした年月は、誰も伺うことのできない積み重ねだったと思います。


へでは、娘のいない義父には物珍しいイキモノだったのか、随分可愛がってもらいました。
新婚旅行から帰ってきた晩に、「これからは、サン付けしないから」と言われました。
いつも名前で呼んでくれました。
2人で日帰りバスツアーにも参加したことも、今では良い思い出です。
ひとりで行かせるのは、ちょっと心配だからという義母の依頼でへでが同行しました。
車中ずっと上機嫌で、自分の青春時代、会社員時代のことをいろいろ話してくれました。

ツアーの人々に年齢を聞かれて、ちょっと得意そうに答え、その反応を楽しんでいました。
足場のよくない所も、運動神経の良さを発揮して、ひょいひょいと歩を進めていきました。
トロいへでの方がおっかなびっくりで、モタモタしていました。


シルバーカーで買い物に行くと、へでの好物も買って来て差し入れをしてくれたものです。
可愛がってくれることをついつい当たり前と思うほどでした。
4半世紀前、一歳違いの実父と義父は同時期に同じ病気になり、2人は明暗を分けました。
義父は実父の分まで可愛がってくれたのでしょう。
ベッド脇でいろいろな思い出話をして「ありがとう、お父さん」と言うと、
いつも微笑んでうなづいてくれていました。


この日に限ってへでが帰ろうとすると、義父は引き止めました。
また腰を下ろして、孫たちが幼い頃の思い出話をしました。
やがて寝息をたてたので、「ではまた明日」と言って部屋を出たのが悔やまれます。
その時には、まさか義父の明日がもうないとは思いませんでした。

人生をまっとうした人の冥福を祈るばかりです。


ではまた。

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